今日からチャリ通勤を始めました
タイトルの通り今日から会社へチャリ通勤を始めました。
チャリ通勤といっても、自宅から最寄り駅までは徒歩、電車に揺られ、会社の最寄駅から会社までが自転車になりました。
以前はバス通勤だったのですが、まあとある事情で変更になりました。
「一身上の都合」という文言を使わない理由は、この言葉の意味を調べると察して頂くことができるかもしれません。
まあ職場の近くに大学や中学校があって、酷い時間帯(朝、18時以降)や酷い時期(みんな志高い4月)に乗り合わせるとまさに「SUSHI-ZUME」状態で堪ったものではありませんでした。
さらに生まれてこの方電車通学はおろかバス通学までしてこなかった自分にとって、4月はもう会社に行くだけで体力の7割はもってかれるクソゲー状態でした。
小学校中学校は徒歩、高校は自転車、大学は大学近くにアパート借りて徒歩。こんな生活でした。
さらに辛かったのはまだあります。
それは出発時刻という概念、そして遅延という現象です。
以前の私は、家を出る時刻の目安はすべて己の経験と勘に委ねてきました。
どの位の時間に家を出れば、目的地にたどり着ける。それは心(絶対にたどり着くという強い気持ち)・技(歩行および走行スキルならびに培った判断力)・体(やり遂げるまで壊れない体力とこの身に流るる熱き血潮)のすべてを総動員して追い求めた一つの真理でした。
もしこの複雑に絡み合った論理にわずかでも狂いが生じれば、降りかかるのは災いです。
その災いを一生懸命回避するために、また途方もなく膨大な考えを張り巡らせ、己を悔やみそして信じ、新たな真理に身を投じるのです。
しかし、出発時刻という概念は私の考えや計算を真っ向から否定します。
いくら私が理想的な解にたどり着こうとも、その論理をあざ笑うかの如くこちらに機械的な法則を突きつけるのです。
54分でなければ。08分でなければ。14分でなければ。時刻は私の選択肢をこれでもかという位狭めてきます。
もう既に通勤を始めてから2回、私は現実に絶望し、己がもっていたわずかな矜持を削り、最低限の答えしか求めない愚者へとなり下がっています。
更に恐ろしいことに、今まで磨いてきた己の勘や経験よりも、出発時刻を基にして答えを導きだそうとしている己がいました。
既に他人の借り物を有り難がり、そして囚われる犬のような存在となっていたのです。
これ以上成り下がるわけにはいきません。もう一度反省し、理想解を探し続ける必要があります。
もう一つ私が当惑したものがあります。
先ほどもお伝えした逆らうことが出来ない絶対的な法則。その法則は「遅延」というまやかしの言葉を用いることで、あっという間にその意義を失うのです。
急病人?線路の確認?混雑?
今日は幻のマグニチュード9.1の地震の影響で大幅にその法則が乱れました。
この遅延はいつ発生するかは神のみぞ知る事態です。
この様々な人の意思がはたらき生み出された乱れは、もはや人が及ぼす災いの域から天が及ぼす災いへとその力や形を変えています。
明日も、そしてこれからも概念や法則、そして事態を戦々恐々としながら、祈り続けるほかないのです。
しかし、だからといって自動車に乗るつもりはもはやないのです。ただ、自転車というわずかな自由を手に入れられたことに、小さな喜びを感じています。