金曜からカレーを食べてみよう

天パ眼鏡が食ったり読んだり考えたり

三国志で好きな武将を紹介します。(呉編)

昨日に引き続き~

makige39.hatenablog.com

 

今日は呉について話します!星も頂けたので張り切って紹介していきますよ~!!

 

呉という国は三国の中で一番長く続いた国なんですが、どんな武将がいたのかとかはもしかしたら一番三国の中で一番知られていないかもしれないですね。

泣いて馬謖を斬る」や「死せる孔明生ける仲達を走らす」、「水魚の交わり」「三顧の礼」のような三国志原典の諺も多くありますがほとんどが蜀に関することで、呉に関するのは中々見当たりません。

 

しかし、探しているうち呉に関するだれもが聞いたことのある故事成語を見つけました!

「苦肉の策」

自分を犠牲にしてでも、敵をあざむくために行うはかりごと。を指す諺ですが、これは赤壁の戦いのときに火計を成功させるために大軍師の周瑜が呉の古参の将である黄蓋を魏に投降したと見せかけるために鞭で何度も体を叩き、あたかも真実であると見せかけたことに由来します。(その後ご存知のように火計は成就します)

 

なにか他に良い諺はないか調べていくうち見つけたのが、一人目の武将です。

それが「呂蒙」です。

彼を表す有名な諺として、「呉下の阿蒙」と「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」があります。

 

呂蒙は幼少期から青年期にかけあまり勉学に触れる時間がなく、戦に明け暮れ、その武名を馳せていました。

 

しかしあるとき主君である孫権から勉学の大切さを諭されると、メキメキと上達し、なんと軍師としての才も開花させました。

軍師の魯粛(呉を代表する軍師。ちょっぴり割を食う人)から質問されたときに、難題にもスラスラと答え、むしろ彼に対し策を授ける武勇に智力が備わった呂蒙の姿をみた魯粛は「呉下の阿蒙に非ず」(呉にいた頃の蒙ちゃんじゃない)と評したそうです。

これだけでも優秀さを表すエピソードですが、そう評された呂蒙が、魯粛に対し

士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし」(男子三日会わざれば刮目して見よ。と同意)と言ったそうです。

 

うーん、格好いい!

しかも武力知力共に兼ね備えた呂蒙は、その後三国志世界でもはや神様である関羽雲長を討ち取る大戦果を挙げます!

 

なお、三国志演義では関羽に呪われて叫びながら血を吐いて死ぬという蜀びいきの犠牲者の一人です・・・。

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2人目は周泰です。

イメージとしては、孫権の親衛隊隊長のような働きをした武将です。

孫権が反乱軍に攻撃された際、周泰は体に十数か所の傷を負いながら、主君である孫権を守り切りました。

他にも先鋒として重要な戦に出陣し功績を上げていったので、孫権からは重用されました。

その関係性を表す有名なエピソードに、こんな話があります。

周泰に従わない味方武将(徐盛や朱然)がいたとき、孫権は宴を開き、その場で周泰に服を脱がせ、主君のために受けた傷を一つ一つ語らせ、最後に深く深く感謝したそうです。

周泰への深い感謝を主君自らが示したことで、従わなかった武将たちも納得したそうです。

このエピソードは今までは感動エピソードだと思っていたのですが、何かこう呉の独特の主君と家臣の距離感や空気感を表すエピソードにも感じるようになりました。

まさに孫家の呉といった感覚です。

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(コンボ職人)

 

三人目は諸葛瑾です。

諸葛の姓が表す通り、蜀の大軍師の諸葛孔明のお兄さんです。

イメージは、夷陵の戦いの前までは政治顧問兼外交官。それ以降は一介の武将としての働きが多くなります。

 

諸葛周泰と同様孫権から深く信頼され、蜀との折衝に大きく関わりました。

こちらも関係性を示す良いエピソードがあります。

諸葛亮劉備の使者として呉に来た際、孫権が兄弟のなじみで諸葛亮を呉陣営に引き入れられないか尋ねた際、諸葛瑾は「私が国を裏切らないのと同様、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と兄弟としての特徴と、自身の忠誠心を同時に披露し孫権を感銘させます。

また関羽の死後、蜀との関係が悪化した際に蜀との内通が疑われたときには孫権が先の諸葛瑾の発言を引用し、家臣たちを言い含めたそうです。

 

その立派さは大したもので、畜生的なエピソードが見当たりません。

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余談ですが更に諸葛一族まで視野を広げると、蜀の諸葛亮は言わずもがな。兄の諸葛瑾もこの働きっぷり。

さらにその二人のはとこに諸葛誕という人物がいますが、彼は司空という三公(国の最高位)の一つに任じられています。

まさに「蜀漢は其の竜を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」ですね。

ということで、諸葛一族の虎担当でした。

 

明日は三国に属さなかった武将の紹介を行います!

まさに

 

三国志で好きな武将を紹介します。(蜀編)

とうとう6月なのか、まだ6月なのか、感覚的には測りかねるところでありますが、6月になりました。

 

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昨日に引き続き、三国志のお気に入り武将の紹介。

今日は蜀の武将です。

 

蜀という国は魏や呉と比べて成立したのが遅いし、またどこか成立の仕方もぼんやりとしているので自分の中では劉備玄徳という男に人や武将が集まって出来た集合体みたいなイメージです。

 

もともと劉備が傭兵のような立場で各地を転戦した末、様々な地域で、様々な武将に仕えていた強者たちが集まっていますので、その能力や魅力は極めて個性的に感じます。

 

また王朝としての正統性や、国家としての正当性の議論は込み入った話題になるのでここでは自分の主観で語らせて頂きます。

 

まず一人目は「黄忠」です。

 

彼は劉表配下から、曹操を主君とする韓玄の配下になった後劉備の下に来ます。

黄忠のイメージとしてはやはり「スーパーおじいちゃん」です。

演義だと60歳を超える老体ながら戦場を駆け巡り、どこぞのアーチャー張りの活躍を見せます。

中でも一番は定軍山の戦いでの活躍です。この要衝・漢中で行われた戦いで黄忠は、率先して軍を率い、魏の猛将である夏候淵(あの人は狼だぁby許チョ)を討ち取る働きをみせます。

 

その活躍ぶりから、中国では老いてなお益々盛んな人(何が盛んなんだろう。血気かな?)を老黄忠と呼ぶそうです。

現代まで語り継がれれる大武将の一人です。

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2人目は「ホウ統」です。

蜀の抱えた奇跡の二大軍師の一角です。

諸葛孔明が「臥竜」と呼ばれていたのに対し、ホウ統は「鳳雛」と称せられていました。

 

その醜い風貌から、孫権には疎まれ劉備には誤って県令(今でいう市長レベル)の職に宛がわれます。

しかし大役であればこそ輝くという人物評の通り、赤壁の戦いでは連環の計を献策し見事呉・蜀連合軍を勝利へ導く活躍を見せます。

 

しかし、蜀という国が出来上がる直前に、劉璋という武将を攻めていた際矢を受け亡くなってしまいました。

演義では「落鳳坡」という地名で討ち取られたとされており、正に鳳雛が落ちる場所となってしまったことになります。

早くに亡くなったため、軍師としてのエピソードは多くありませんが才気に溢れる人間であったことは伺えます。

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あっしでほげさでワカメ

 

最後の一人は「法正」です。

ホウ統がいなくなった後蜀が成立するまで劉備を支えた軍師です。

諸葛孔明ホウ統に比べて蜀の軍師としての知名度は落ちますが、その能力はあの人材マニアの曹操をして

「わしは有能な人材をほぼ全て集めたが、なぜ法正のみ手に入れられなかったのだろうか」

と言わしめました。

彼は特に軍才に秀でており、黄忠が大活躍した定軍山の戦いでも黄忠含む蜀軍の指揮を執ったのはこの法正でした。

特に蒼天航路の描写が素晴らしく、対夏候淵戦ではその軍才をいかんなく発揮し、対曹操戦では曹操の持つ強すぎるカリスマ性と天性の戦巧者ぶりをひしひしと感じながら、その身を削り振り絞りながら策を生み出し続ける様は、その場にいた劉備じゃなくても圧倒されました。

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定軍山の戦いに勝利した蜀は劉備を漢中王として本格的に国家として動き出しますが、法正はすぐに亡くなってします。

その死に悼んだ劉備は、蜀の人間の中で法正に唯一「翼侯」という諡号を諡ったそうです。

その後蜀諸葛孔明一人では支えきれないのか戦での敗北が目立ち始めます。

 

「蜀は龐統を得てから勝ち始め、法正を失ってから急に勝てなくなった」という評を拝見しましたが、その通りではないでしょうか。

 

三国志で好きな武将を紹介します。(魏編)

クラスに一人はいたんじゃないかと思います。三国志が好きなやつ。

 

それが私です。

 

横山光輝氏の大人気漫画「三国志」を読破し、図書館にあった三国志関連の書籍を読み漁り、「蒼天航路」は今も自分のバイブルの一つです。

 

自分が三国志を好きな理由は、やっぱり様々な物語が繰り広げられるスケールの巨大さと古の時代に数多くの個性溢れる(いい意味でも悪い意味でも)飛び抜けた人材が台頭して覇権をかけて争い合う複雑さを備えているからだと思います。

 

単純に中国と日本は現在の国土の大きさで比較してもおよそ25倍ですから全然違います。

流れている川(長江とか)ではまるで大海戦のような戦いが開かれます。

また戦争に参加する人も多く、例えば有名な戦いで「赤壁の戦い」という合戦があります。

 

有名なエピソードでいうと、三国志が誇る名軍師の諸葛孔明が矢を10万本奇策を用いて集めたり、火計を成功させるために船を鎖でつながせたり東南の風を吹かせたりする話があります。

そこに参戦した人数が、呉・蜀連合軍が約4万人、魏軍に至っては約20万人が参加した大戦です。

そのスケール感を想像するだけで胸躍ります。

 

赤壁の戦いについて、何となく理解したい方はこちらの映画がおススメです。

 

 

 

次に飛び抜けた自分の中で大好きな人材を紹介します。

蒼天航路大好きなので、どうしても魏寄りの人選になってしまいます。(中国の人は曹操が好きなことを理解できないみたいですね)

 

まず紹介する武将は「張遼」です。

董卓呂布といった奸雄・猛雄に仕えながら最終的にその武と人柄を認められて曹操の下で活躍した武将です。

何といっても大きなを轟かせたのが合肥の戦いです。

この戦いで張遼はリアル三國無双と言わんばかりの活躍(孫呉10万の兵に対し魏軍わずか7000。それで勝つ。突撃、仲間が敵に囲まれていたら再突撃。遼来遼来と言うと合肥の子が泣き止む)を見せました。

やっぱり強さと人柄を兼ね備えた人物に惹かれますし、憧れます。

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(個人的にこの頃のスタイルが無双シリーズでは好き)

 

次に紹介するのは「荀彧」です。

三国志きっての人材マニアだった曹操を支えた名軍師で、その活躍から「王佐の才」と評されました。

その推挙(ある官職・仕事に適当な人だとして、その人をその地位につけるように勧めること)っぷりは、郭嘉司馬懿、王朗などトップクラスの人材を見れば一目瞭然です。

 

ただ、その死には謎が多く、陰謀説や反抗説など多く言われていますが定かではありません。

蒼天航路では、最後のシーン(ラストワルツ)で自分は泣いてしまいました。

 

最後に紹介するのは「賈詡」です。

この人物は初め張繍の下におり、魏とは敵対関係にありました。

また宛城の戦いでは賈詡の策の下で曹操は猛将典韋や子の曹昂を失います。

しかし、曹操は彼を雇い入れ参謀としました。

その後、離間の計の進言や後継者問題に関する助言など魏を支える重要な働きを見せ、77歳の天寿を全うしました。

 

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蒼天航路では結構面白い人に描かれています。

 

 

以上が自分の好きな魏の武将です。他にもまだまだいますが(やっぱり魏は人材が豊富)今回はこの3人を挙げさせて頂きました。

 

明日は蜀の武将を紹介したいと思います!

今の時間と過去の時間~懐古厨ではあらへんで!~

こんな曲を聴きながら。

www.youtube.com

 

懐古厨。

それは「昔の方がよかった」という言葉を連発し、むやみやたらに今あるものを否定したがる人たちのことであります。

昔を懐かしんだり、振り返ったりする「懐古」とは意味が異なるので注意が必要です。

もしあなたが「今を攻撃し始めたら「懐古厨」になるので注意しましょう。

代表的な懐古厨といえば、例えばこの人達がいます。

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クレヨンしんちゃん映画「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」に登場する敵キャラケン(左)とチャコ(右)ですね。

昔(20世紀)を懐かしみ、今(21世紀)を否定しようと懐古主義が暴走し、今を壊すために画策する秘密結社「イエスタディ・ワンスモア」のリーダーとその恋人?です。

 

この映画自体、感想で記事を書けるくらいめちゃくちゃ面白い映画なのでぜひ見て下さい!(またDVD借りてこようかな・・・)

 

もちろんこの映画を観て、「昔のクレヨンしんちゃんの映画は良かったなあ」と思い出に浸ったり、もう一度観直すことは問題ないですが、

もし、その言葉に今のクレヨンしんちゃんの映画を否定批難するニュアンスが含まれてしまうと、途端に「懐古厨」の仲間入りをしてしまいます。

 

また「一番面白い」といって比較したり(同ジャンルでランキング作り出したらもう怪しい)、今の作品を批判するときも曖昧で感情的な言葉しか出てこない場合も「懐古厨」になってしまっているかもしれません。

 

ですので、誤解が無いようお伝えすると、映画「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」はあくまで私の主観に基づく一意見であり、ジャンルや時系列問わず一切の作品を貶めたり過度に賛する気持ちは全くない上で、まず「面白い」と思った。

ということになります。

 

クレヨンしんちゃん問わず、長く続いている作品には「懐古厨」の存在が必ず現れます。

ですので、決して自分がそうならないよう、またもし見かけても穏やかな心を持ち続けたいですね。

 

 

ではここで、自分自身を対象に「懐古厨」になった場合どうなるでしょうか。

簡単な例をあげると、

「前のクラスが良かったー」とか「高校時代最高だったー」ですね。

 

自分を例に現在までの時間の使い方を単純化してみると

小学校では、学校(勉強・部活)、少年団、塾、習い事、友達と遊ぶなど書ききれない程様々なことをやってました。

教師のいじめに立ち向かったのもいい思い出です。

中学校では、学校(勉強・部活)、塾、ボランティア、友達と遊ぶなど少し磨かれてきました。

高校では、学校(部活・行事・勉強)、塾、友達と遊ぶなど中学校に比べて大分頻度に偏りが出てきます。

大学では、大学(授業・ゼミ・サークル)、アルバイト、飲む、一人で遊びに行く、ネットサーフィンなど自分自身の特徴に合った行動を選んで使っていました。(無駄遣いが多かったことは否めない)

 

そして現状社会人は、仕事、ネット、飲む、一人で遊びに行くです。

まずい位に洗練され過ぎて、必要なものまでそぎ落としてしまった感が見えています(笑)

 

私の経験から振り返るに、懐古は「個性と多様性の丁度いいバランス」の時に一番強く生じるのではないかと思います。

 

小学校~中学校は皆義務教育を受け、何かしらの部活に入り、学校以外でも友達と会って話したりします。

その時一瞬一瞬はとても楽しいかもしれませんが、いざ振り返ると内容に個性がなくそこまで有り難がる必要も感じないかもしれません。

 

一方で高校~大学は自分のレベル合った教育を受け、所属する組織も自由、個人の時間の使い方も自由になり時間と裁量が大きくなります。何か一つのことに打ち込んでも良いし、色んなことに挑戦も出来ます。

そういった個性溢れる経験が振り返るべき良き思い出として昇華されるのではないでしょうか。

 

懐古は自分を優しい気持ちにさせます。ですがあまりにその甘さを摂取しすぎると、やがて依存となり今を見ていけなくなりそうな気がします。

 

なので、今「も」楽しいと思うようにしています。

それがたとえ最近の思い出が仕事と艦これの事ばかりで、2日前の夕食を回顧できなくなっていてもです。

 

・・・あれ、自分自身を懐古したら悲しい気持ちになってきました(笑)

勉強より掃除が捗っちゃってさ~、テストまじヤベーよ【現象名:セルフハンディキャッピング】

明日は大事なテスト!

 

勉強しなきゃいけないと思って、机に向かって勉強していると段々と机の上や周りのゴミが気になってきて、ついつい「リフレッシュついで」だとか「より集中するために」とか言って片づけをしてしまったこと、ありませんか?

 

片づけに熱中して、いつの間にか寝る時間になっていたり綺麗な部屋を眺めて満足してしまったこと、ありませんか?

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試験の直前に特に聞かれてもいないのに、「昨日掃除にめっちゃハマっちゃって~、勉強全然してねーわ、マジ眠いマジ勘弁(笑)」とか綺麗好きアピールとは程遠いまさしく誰得な情報を公言したこと、ありませんか?

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不自然に、自分の世間体や評判を守っていませんか?

 

このどうしようもないけどついつい陥ってしまいがちなこの行為にも名前があります。

その名も「セルフハンディキャッピング」

直訳すると「自分で(=セルフ)不利な状況を作る(=ハンディキャッピング)」です。

これは決して、

自分を背水の陣のように背後が川で逃げ場がないのだから必死に物事に取り組むというわけではなく、

背後が川で逃げ場がないのだから物事に取り組むことが出来ないという全く逆の後ろ向きな発想になってしまいます。

 

セルフハンディキャッピングには2種類存在し、まず一つ目が

「勉強しなければいけないのに掃除に嵌ってしまう行為」のように自らハンディキャップを作り出す行為のことを

獲得的セルフハンディキャッピング」と呼びます。

また、「勉強せずにテストに臨む自分を周りに言いふらす行為」のように自らにハンディキャップがあることを主張する行為を

主張的セルフハンディキャッピング」と呼びます。

 

どちらにせよこのセルフハンディキャッピングには極わずかなメリットと大きなデメリットが存在します。

 

メリットは失敗した時の心理的なダメージが減ることです。

例えばもしテストが上手くいかなかったときは「掃除に嵌っていた」という事実とそれを公言した事実がありますから、周りに対して「やっぱり・・・」とか「ほら言ったじゃん・・・」といって言い訳をすることが出来ます。

またよしんばテストが上手くいったときは「大して勉強していないのにテスト上手くいった自分すげえ」と周囲に対して鼻高々にアピールすることが出来ます。

 

デメリットの最たるものは、向上心がなくなって努力や挑戦をせず言い訳ばかりの人間になってしまうことです。

「テストに失敗しても仕方ない」とか「負けても大丈夫」だとか自身の見栄の皮を厚くしていくことで、身動きがとれない何もできない人間になってしまいます。

また、もしビジネスシーンでプレゼンを任されている人間が失敗を見越したような言い訳(セルフハンディキャッピング)を行った場合果たして周囲の反応はどのようなものになるでしょうか。

 

それにまずセルフハンディキャッピング自体は、決してテストの点数に挙げられるような物事が好転することは決してありません。

あくまで言い訳で欲しいのは「結果」でなく「逃げ道」や「すごいね、残念だったね」という言葉です。成功率や状況が良くなることはありません。

 

では、セルフハンディキャッピングを無くすにはどうすればいいでしょうか。

確かに人間は社会とりわけ集団で生活する生き物ですから「世間体」であったり「プライド」を気にしなければならない場合が必ず存在します。

しかし、それらの気持ちが「成功」や「達成」よりも大きいものか考えることがまず重要だと思います。

 

そう考えたうえで、もしテストで良い点をとる方を優先したいのなら

周りに「今度のテストは100点取る自信がある」と公言してみせた上で勉強した記録を形を残しておいてみたり、0点取ってもいいや(本当に良いのかはケースバイケース)と気持ちを開き直らせたり、もし失敗しても言い訳を止めてみたり、

してみれば良いのではないかと思います。

 

 

ですので私は、イベントが完全クリア出来ない理由を決して外部に求めません。

果たしてアイオワをゲットできるのか不安で仕方ないんですが・・・。

 

いいか?絶対に○○するなよ?良いな?【現象名:カリギュラ効果】

※今日の記事は絶対に見ない方が良いですよ?分かってます?見ない方が良いですよ?

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・ごめんなさい、読んでください。どうかお願いします。

 

改めて今日紹介するのは、「カリギュラ効果」という現象です。

 

これは、禁止されるほどやってみたくなる心理状況を指した言葉です。

 

由来は、1980年に公開された映画「カリギュラ」がタイトルに反して中身がとんでもなくポルノグラフィな内容だったためアメリカ・ボストンで公開禁止になったことが逆に世間の話題となった事にちなむそうです。

 

じゃあ良く聞く「絶対に忘れない」とかいう言葉(のび太が言ってそう)は、自分はどうせすぐに忘れるという暗喩なのでしょうか。

 

 

カリギュラ効果」は想像するだけでいくつものパターンが想像できます。

 

例えば、

「絶対に開いてはいけません」と言われれば開きたくなってしまうし、

 

「絶対に見てはいけません」と言われれば見たくなってしまうし、

 

「絶対に笑ってはいけません」と言われれば笑いたくなってしまうし、

 

「絶対に押してはいけません」と言われれば押したくなります。

 

 

「絶対に開いてはいけない」

このキーワードで連想される話は、例えば「パンドラの箱」や「浦島太郎」、「舌切り雀」ですね。

後者の二つは有名ですので、「パンドラの箱」について軽く解説します。

ギリシア神話時代、天空神ゼウスは人間に火をもたらしたプロメテウスを懲らしめるために彼の弟エピメテウスに人類最初の女性であるとされるパンドラに壺を持たせて贈りました。

このときゼウスは「この壺だけは絶対に開けるな」と言い含めたそうです。

 

その後2人は幸せに暮らしますが、ふと壺が気になってしまい開けてしまいます。

中から出てきたのはあらゆる負の感情。パンドラは慌てて壺を閉じますが、結局最後に1つ残ったのが「エルピス」でした。

このパンドラの手元に残った「エルピス」の解釈ですが、単純に「希望」であったり、はたまた「偽りの希望」であったり、「災厄という名の希望」であったり諸説あります。

また、なぜ「壺」が「箱」に変化しているかというとルネサンスロッテルダムエラスムス古代ギリシア語のπίθος(ピトス:壺の意)をラテン語の pyxis(ピュクシス:箱の意)に訳したからです。

 

ゼウスは、人間が開けることをあらかじめ知っていて(全知全能ですから)このような回りくどいことをしたんですから、中々どうして神というのは捻くれてるんでしょうね。

 

「絶対に見てはいけない」

これで連想される話は「鶴の恩返し」「附子」「黄泉の国の伝説」でしょうか。

それぞれ民話、狂言、日本神話とバラエティに富んでますが、今回は「附子」について軽く解説します。

 

「附子」とはトリカブトのことです。

ある家の主が使用人の「太郎冠者」と「次郎冠者」に附子(猛毒)の入った桶に決して近づかないよう言い残し外出します。

しかし二人は気になる様子

次 :さて汝は あの附子といふものを
次 :みたことがあるか
次 :身共はついに見たことがない
太 :身共もついに見たことがない
太 :けふは幸ひのお留守ぢゃ
太 :そと見ようと思ふが何とあらう
次 :いやここな者が あのやうな大毒を
次 :見ようなどといふことがあるものか
次 :さりながら ここに気の毒がある
太 :いづれもが やい太郎冠者
太 :そちが所に附子といふものが有るげな
太 :どのやうなものぢゃとお尋ねのとき
太 :御家にありながら 存ぜぬとは言はれまい
太 :幸ひのお留守ぢゃ そと開けてみよう

そして太郎冠者が桶に近づくと、なんと中身は附子ではなく甘く貴重な砂糖。二人は言いつけも守らず食べつくしてしまいます。

 

その後機転をきかし、部屋を滅茶苦茶にして罰として附子を飲んだことにしてごまかす二人は結局・・・

主 :がつきめ がつきめ
太・次 :ああご許されませご許されませ
主 :何の許せとは
主 :あの横着者
太・次 :ご許されませご許されませ
主 :やるまいぞやるまいぞ
太・次 :ご許されませご許されませ
主 :やるまいぞやるまいぞ
太・次 :ご許されませご許されませ
主 :やるまいぞやるまいぞ

というオチになります。

 

前半の恐る恐るながらも好奇心の塊な掛け合いと、後半の食べてからの怒涛の展開はいかにも狂言らしくて面白いですね。

 

「絶対に笑ってはいけない」

これは言うまでもなく年末の「ガキの使いやあらへんで」の名物企画でしょう。

笑ってはいけないシリーズ - Wikipedia

個人的に松本の他人を笑わせようとして自滅する姿と、月亭方正のしょうもない様子、笑いの刺客の板尾創路ジミー大西が好きです。

 

また、小梅太夫が奇跡的に面白く感じる魔法の言葉でもあります。

www.youtube.com

土曜日はは~た~んん~~っ!!

 

「絶対に押してはいけない」

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もはや言わずもがなの名人芸。ダチョウ倶楽部上島竜兵氏のお家芸ですね。

 

それでは最後に宣伝を。

絶対に書店ではトイレに行かないでくださいね!

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書店に行けばおなかを下す【現象名:青木まりこ現象】(後編)

昨日に引き続き、書店に行くとなぜか便意を催す怪現象「青木まりこ現象」について、唱えられた説を記述していきます!

makige39.hatenablog.com

(昨日の記事も合わせて見て下さい!)

 

<姿勢説>

立ち読みの姿勢、つまり直立姿勢あるいは少し俯きの姿勢から手に持っている書物を一点に見つめる所作が便意を生じさせるという説です。

また、ゆっくり歩いて立ち止まる。時折腰を屈める。という繰り返しが原因とされる推測も存在します。

確かに、静かな時間が流れ且つ個々人がおのおの没頭するまるで半公衆性の中という曖昧な空間の中じっとしていたり緩やかな動作を続けていると胃腸もどう振る舞って良いか分からず不具合を起こしてしまうかもしれません。

ですが博物館とかも似たような環境ですが、あまり「青木まりこ現象」は聞きませんし私自身博物館もよく行きますが強烈な経験はしたことがありません。

 

<視線説>

瞼を開く際に使う筋肉は交感神経で、閉じる際に筋肉を緩めるときは副交感神経がそれぞれ優位に働くようです。

俯きがちに本を読む場合、瞼はどちらかというと伏し目がちになり副交感神経が優位に働いた結果、リラックス状態となるため便通が促されるというものです。

比較的有力な説とされているそうですが、むしろ私は姿勢説よりも懐疑的です。だって電車でスマホいじってる人たちはみんなもじもじ我慢しているでしょうか?

 

<幸福否定説>

これは理解するのが難しいです。

臨床心理士の笠原敏雄という方が唱える説で、氏が言う「幸福否定」とは「嬉しさに繋がる気持ち(=幸福)を意識するとそれに対する無意識の抵抗(=否定)が身体の症状として表れる」ということです。

つまり、幸福否定説にとって「青木まりこ現象」はその表出結果の一例ということになります。

本屋で欲しい本あるいは関心を抱く本が存在すると想像する状況が、その人にとって幸福であると認識した場合身体は無意識にその幸福から遠ざけようと試みるそうです。

確かに、これならスーパーマーケットやレンタルビデオ店で似たような状況が惹起されるのも道理が通っているような気がします。

実際私もTSUTAYAで何度も腹痛に襲われた経験が、本屋と同じくらい存在します。

 

つまり、瞬間的な幸せの予感に対して体が防衛反応や拒絶反応をとることで、心身合わせて体のバランス体のバランスをとるのではないでしょうか。

昨日も書きましたが、体はつくづくツンデレですね(笑)

 

他にも瞑想や霊力といったオカルトチックな説が存在していますが、本に霊力があるとかどこのヴワル魔法図書館だよ。

むしろだからパチュリーは病弱説・・・?

こう考えると霊力説が自分の中で濃厚になってきました。

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